イラストや日々の記録など
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2011年 07月 31日 ( Sun)
まずは「気になる」ことから始まる。
気になって「いいなぁ」とつぶやくうちに心が暖かくなり、暖かさで熱を帯びた心は「熱心」と誰かに呼ばれる。熱が冷めなければ次第に火が宿され、気付くと火に包まれて「熱中」の人となる。これがしばらく続くと、やがて火中の熱さにも気付かなくなり、いつのまにか火ではなく夢の中に入り込んで、もう「夢中」である。
問題はこのあと。
夢は、自分の見ているものだからまだいいとしても、「夢中」が高じてくると、ついには「虜」となり、囚われの身となって、しだいに「自分」が失われてゆく。
世の慣例では、「自分を見失う」のはよくないことのひとつに数えられているが、そう言いながらも、人は常に「我を忘れること」に出会いたいとどこかで願っている。何かに夢中になりたいと、探し歩き、それでもなかなか出会えないので、仕方なく夜になると大酒を飲んで我を忘れたりする。
どうして人は、そんなにも「我を忘れたい」のか?
毎夜、大酒を飲みながら考えてみたところ、どうやらこの問いは「ひとはなぜ恋をするのか」と同義であると酔いの中で思いついた。それなら答えは簡単である。
「そんなことは知らない」
しいて言うなら「本能」ということになるかもしれないが、「本能だから」という簡潔な答えは、略さず正確に言うと、
「まあ、よく分からないけど、とにかく仕方ないよ、本能なんだから」となる。
とにかく理屈ではない。とにかく好きなものは好き。とにかく気になって、とにかく熱中して、とにかく夢中になって、とにかく虜になってしまった-というのが恋である。
「とにかく」である。
そして、人は「とにかく」を何より信じている。理屈を超えて信じることが、つまり「我を忘れる」であり、「我」とはすなわち「理屈」のことに他ならない。とかく理屈ばかりを掲げてそれに縛られていると、縛りをほどいて「我」の核心にある「本能」に立ち返りたくなる-そう思いませんか?
「それだけかね、君の理屈は」
医師はそう言うと、私のカルテをしたためて、最後に「病名」を簡潔に書き記した。
〈活字中毒〉

……「という、はなし」吉田篤弘(文)、フジモトマサル(絵)より
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